40歳で歌手になりたいと挑戦を始めた私ですが、31歳のとき、全く違う大きな挑戦をしたことがあります。その時の結果次第では、今歩んでいる人生は別のものだったかもしれません。
何年も携わっている医療支援活動のNPO法人で色々と問題を抱えて方向性を見失いそうになると、決まってどこからか励ましの文章が目の前に現れてきます。
昨日目の前に現れた文章は、2013年5月15日に私が「12年目の告白」と題してFacebookに投稿した手記です。すでに読んで下さっているかたもいらっしゃると思います。Facebookは過去記事がどんどん埋もれていくので、ブログに残しておきたくて再投稿します。
現在は過去に繋がっている。
この記事を読んで、今抱えている問題に自信をもって向き合っていこうと思いました。
「12年目の告白」~Facebook 2013.05.15投稿~
2000年、小児外科医故荻田修平先生とメキシコシティへ行ったとき、100人以上の医療従事者を前に荻田先生が英語で治療に関して講演する機会がありました
中には英語を解さない医師もいらっしゃるというので、私はサブ的に通訳に入りました。
講演後、質疑応答へと移りました。順調に治療に関する話が交わされていきました。
突然、リンパ管腫治療とは直接関係のない質問をスペイン語の医学専門用語を使ってなさった医師がいらっしゃいました。
何を言われているのか全くわからない。
私は100人以上の聴講者を前に壇上で凍りつきました。
他のメキシコ人の医師がその様子を察して助け舟を出してくれました。
そのとき、自分は痛感しました。
医師間の専門的な会話を臨機応変に通訳するレベルに自分はない。
患者と医師間の通訳は、医師が患者に理解できるように説明してくれますが、医師間ではそうはいきません。
すっかり自信を喪失して日本に帰ってきました。
トップレベルの医療通訳者を目指すなら医学を専門的に学ぶ必要がある。 沸々と熱い想いが湧き上がりました。 医学部を目指そうかとも思いましたが、医師になることを求められているわけではない。
そんな折、絶好のタイミングで、近所の大学に新しく「看護医療学部」が創設されるという情報を入手し、早速調べてみたところ、カリキュラムには看護師以外にも、「医療ジャーナリスト」についても言及されていました。
「これだ!!!」直感的に思いました。
幸い、AO入試というとても有難い制度もあり、夫も、「大学に入りなおす」という私の無謀とも言える挑戦に同意してくれました。
早速願書を取り寄せ、高校から卒業証明書を取得し、すべて書類を揃えて願書を提出しました。
第一次書類審査合格の通知をもらったときはほんとに嬉しかったです。
あとは、面接。
ここまで来たらもう絶対大丈夫!!と、意気揚々と面接に挑みました。
しかし、面接での質問内容は予想していたものと全く異なっていました。
「あなたはご結婚されていますが、もし在学中に妊娠された場合はどうなさるのですか。」 「周りの学生はあなたのように社会経験もなければ強い目的意識を持っていないものもいるかもしれません。うまくやっていける自信はありますか。」
大学というところは、高校を卒業したてのものしか勉強できないのか? 既婚の女性は無理なのか? なぜ、大学で何を学びたいのか、問われないのか?
大きな希望と夢を抱いていただけに失望も大きいものでした。
そして、結果は不合格でした。
他大学への再挑戦も考えましたが、様々な医師の方々にも相談し、考えに考え抜いた末、自分に求められているのは通訳であり、現場でコツコツと積み重ねて医学を勉強していこうという考えに再びシフトしました。
それからは、積極的にJICAの仕事や国際医療センター、神奈川県下主要病院への医療通訳の仕事を請けるようになりました。
今思えば、これから新しく学部を開設するというところに、私のような異色な学生は将来対応に苦慮する問題を生じかねない、と判断されたのかもしれません。
こうして、大学受験という私の大きな挑戦は失敗に終わってしまいました。
しかし、失敗と引き換えに、あるかけがえのない宝物をえることができました。
願書に必要な書類の中に、「志願者評価書」いわゆる推薦状、というのがあり、ご多忙の荻田先生に恐縮しながら作成をお願いしました。通常は封をしてそのまま提出するものなのでしょうが、先生はわざわざコピーをとって私にも一部くれました。推薦状ですから美辞麗句がならぶのは当然ではありますが、先生ご自身のお言葉で私を評価してくださっていました。
受け取ったとき、目頭があつくなりました。
今読み返して、改めて荻田先生が私に託したかったことはこれだったんだなあ、としみじみと感じています。
ほろ苦い想い出と共に、宝物としてずっと大切にします