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リンパ管腫支援活動について

本日2月29日、「世界希少・難治性疾患の日 Rare Disease Day 2016」オープニングにNPO法人事務局長とボサノヴァシンガー両方の立場で出演します。

出演するきっかけとなったリンパ管種患者支援活動には20年以上前から携わっています。

その経緯を母校の会報誌に投稿したことがあったので紹介します。 NPOの活動を紹介した後にボサノヴァを3曲演奏します。 このような機会は後にも先にもないだろうと思います。

 

「難病の子供たちと共に」スペイン語を通しての医療活動~京都外国語大学校友会誌「Alumni News」2006.7.1.No.21掲載

現在私はフリーのスペイン語通訳として仕事をしています。なぜ通訳を目指すことになったか、それは大学時代に出会ったボランティア活動がきっかけでした。「京都府立医科大学こども病院にメキシコから1才半の赤ちゃんが治療を受けに来るので、スペイン語通訳のボランティアをお願いしたい。」 アルゼンチン留学を終え大学卒業を控えた私に、当時所属していた「西語研究会」を通して依頼が寄せられました。スペイン語が話せるよい機会だと軽い気持ちで引き受けたのですが、この体験がその後の私の人生を大きく左右するとは夢にも思いませんでした。

1.リンパ管腫とOK-432

メキシコの赤ちゃん・カルロスに伊丹空港で初めて会った衝撃は今でもはっきり覚えています。生後まもなく気道確保の為気管切開され、太いチューブが小さな体に刺さった状態で、舌は約6cmの厚さに腫れ上がっていました。病名は「リンパ管腫」。先天的なリンパ管形成異常で、首や舌等リンパ管の通るあらゆる部位に腫瘤ができる疾患です。発症率は白血病とほぼ同じと言われています。従来リンパ管腫の治療は腫瘤部分を取り除く外科的治療しか選択肢がありませんでしたが、リンパ管腫は重要な神経や動静脈を内包することが多く、リンパ管腫のみを取り除く治療は極めて困難なものとされてきました。そんな状況に光をあてたのが、京都府立医科大学の小児外科医・荻田修平医師でした。1986年、当時抗がん剤として使用されていた薬剤「OK-432」を用いた局所療法(注射)で目覚しい治療成績をあげ、日本においてこの治療法を確立したのです。一方、カルロスの父親は自ら世界各国の治療法を探し求める中荻田医師の論文と出会ったのですが、当時、治療に必要な薬剤は日本国外では流通していませんでした。治療を受ける為には全資産を投げ売って家族で来日するしかない、そんな家族の窮状を知った荻田医師は「カルロスちゃん基金」を創設、外国の患者を支援するサポート体制を整え、カルロス一家は計4回もの来日を果たすことが可能となりました。

2.数々の出会い

懸命に我が子を救おうとするカルロスの両親、献身的な荻田医師、小さな身体で必死に病気と戦っている子供たち、彼らの姿に感銘を受けながら毎日を過ごしました。忘れ難いのは、日本人患者の母親達とカルロスの母親パトリシアとの昼食会に通訳として同席した時のことです。日本の母親が「病気の子供を持つ親は孤独です。この辛さは他の人にはわかってもらえない。私達はあなたの気持ちがよくわかります」と語ったとき、パトリシアは突然堰を切ったように泣き始めました。この時、「人と人の心をつなぐことができる通訳の仕事は何と素晴らしいのだろう、私の目指すべき道かもしれない」と熱い思いがこみ上げました。

3.忘れた頃にやってくる

こうして一ヶ月の貴重な時間を過ごし大学を卒業した後、在外公館派遣員として在ホンジュラス日本大使館へ赴任、2年間を同地で過ごしました。帰国後は外務省外郭団体・国際交流サービス協会に採用され、外務省の要人招聘事業に関わる仕事につきました。やりがいのある仕事でしたが、日々の忙しさに追われせっかく芽生えたボランティア精神はおろか通訳を目指す夢も次第に薄れていきました。そんな生活に疑問を抱いていたある日。同僚が担当していたカナダからの招聘客が、知人の孫が首の腫れる病気で苦しんでいて、その病気の専門家である京都の病院の医師に連絡を取りたがっている、という話を偶然耳にしました。「もしかして荻田医師のことでは?」と思い確認すると、まさにその通りだということで、早速面識のある私が連絡を取ることになったのです。実に4年ぶりの連絡にも拘らず、荻田医師は診断に必要な情報を快く提示してくれました。その後一人の患者が救われたことを、取材で来日したカナダのテレビ局クルーから知らされました。

4.あの夢よ、再び

その2ヶ月後、荻田医師から突然の電話が。「メキシコから招待されたので通訳で同行してほしい」とのこと。戸惑いつつもこのチャンスを逃してはならないと、時期外れの有給休暇を申請しメキシコへ。そして不安と期待を胸に同地に降り立った私を空港で出迎えてくれたのは、7歳になったカルロスとその家族だったのです。当時赤ちゃんだったカルロスが「Midori ! 」と叫びながら抱きついてくれた時は感激も一入でした。到着早々病院で患者の診断を開始し、現地医師との治療相談やテレビの取材などハードなスケジュールでしたが、通訳として現場に立てる喜びを噛み締め、進むべき道を確信しました。

5.現在そして未来へ

帰国してすぐ夜間の通訳学校に通い始め、1年間通訳技術のノウハウを勉強した後、結婚を機に協会を退職してフリーの通訳として活動を開始しました。様々な分野でプロとしての経験を積む一方、荻田医師のサポート活動を続け、海外への治療啓発活動の通訳やメールでの問い合わせの翻訳を手掛けてきました。荻田医師の地道な活動は徐々に実を結び、世界各国に協力医療機関・医師が少しずつ増え、特に懸案だったアメリカ・FDAの承認においては、現地医師の多大な尽力により大きく前進することができました。しかし活動が軌道に乗りかかった矢先の2003年春、荻田医師は55歳という若さで急逝されました。最後まで自分よりも患者を優先された荻田医師の姿は多くの人々に感銘を与え、他界後、志を同じくする仲間が集まり「カルロスちゃん基金」を改め「荻田修平基金」を設立。今後も一丸となって、世界中のリンパ管腫患者への支援を継続していこうと誓い合いました。ボランティア活動の最大の醍醐味は何といっても素晴らしい人々との出会いです。通訳として更に研鑽を積みながら、この活動を通して難病の子供たちやその家族を支えていきたいと思っています。

プロフィール――――――――――――――――――――――――

氏 名 仰木(おおぎ)みどり)(旧姓松山)1993 年イスパニア語学科卒業。在学中交換留学生としてアルゼンチン・ベルグラーノ大学留学。在ホンジュラス日本大使館在外公館派遣員、(社)国際交流サービス 協会勤務を経て、98年よりフリーのスペイン語通訳として活動開始。主に神奈川県警通訳、JICE(日本国際協力センター)非常勤研修監理員、神奈川県下 の医療機関にて医療通訳を行う。03年より慶應湘南高等部スペイン語非常勤講師。04年、NPO法人「荻田修平基金(http://www,fund-ogita.org)」理事兼事務局長に就任。

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